ま、傷を負うのが目的ってわけじゃないんだけど、
じぶんの人生は、「自前」で「自腹」だろう。
資料だかデータだかばっかり凝視していたら、
どれほど「失敗を避けられる」としても、
「自前」の「自腹」のおもしろさがないよねー。
失敗は成功のもとって、ほんとにほんとなんだぜ。
攻撃型の選手が「守備をなめてないか」
都会で育った人が、「地方をなめてないか」
おとなは、「こどもをなめてないか」
不良少年は、「不良じゃない子をなめてないか」
先進国の人々は、「開発途上国の人をなめてないか」
忙しそうに働きまくる人は「休息をなめてないか」
男は、「女をなめてないか」、またはその逆。
感情は、「論理をなめてないか」
というふうに考えていくと、
あんがい、人はなめてばかりいるように思いませんか。
金をなめてないか、貧乏をなめてないか、
運動をなめてないか、病気をなめてないか、
地震をなめてないか、津波をなめてないか、
テレビをなめてないか、新聞をなめてないか、
インターネットをなめてないか、個人をなめてないか、
お笑いをなめてないか、イケメンをなめてないか、
歴史をなめてないか、チンパンジーをなめてないか、
微量元素をなめてないか、肥満をなめてないか‥‥。
ほんとに、なめてることは多いと思いますよー。
そしてそして、他の人をなめてないか。
特に、敵をなめてないか。
さらに、大問題は、じぶん自身をなめてないか。
・もうちょっとだけ広げると、
いかにも「じぶんで選べる」ように見えて、
じつは「じぶんで選べない」こともたくさんあります。
ものしりであることとか、教養があること、
たくさん本を読んでいることなどを、自慢する人や、
ものを知らない人を簡単にバカにしようとする人が、
なんとなく気持ちわるいのは、
教養を得るための時間や環境があったことを、
勘定に入れてないからだと思います。
ほんとに教養のあるかっこいい人は、
ものを知らない人をバカにしたりしません。
いや、あらゆる人から学ぼうとします。
ふつうふつう、と突然上長が大きな声を出した。あの人はふつう。人間に対してはね。あの人の認知する人間は自分と関係ある人、いつも仕事で接点ある人とか。あとえらい人。自分の上司とか、役付の人間。残りはねえ、なんていうか背景。そして彼はえらい人の言うことをする、それが彼の仕事。
みんなが黙ると上長はため息をついて少し声を落とす。たいていの人が仕事で誰かにぶつかるよね、わかりやすく言うと営業には営業の正義、開発には開発の正義、企画には企画の正義、みたいなのがあるから。みんなそれを見て仕事してる、できればそれ以外も見てほしいけど、まあしょうがない。でもたまに営業とは営業部長のことであると思っている人がいる。そういう人が、ああいうことをするんだよ。
– http://d.hatena.ne.jp/kasawo/2011122740年前は
「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」であったが、
現在は
「人間の運命は完璧に決まっていているから、完璧に自由でもある」になっているという事だ。
つまり、
40年前は「完璧に決まっていて、同時に完璧に自由とは、
言葉で言えば矛盾しているかもしれないが、そうなのだ」という感じだったが、
現在は「完璧に決まっているから、思いきってやっていいんだ!という自由さがある」とでも言えばいいのか。
この課題を40年抱えてきて、
それがある程度身について出た言葉なのかと思う。
とはいえ人間は、
大勢の人の前で大欠伸するのも憚られるし、
そうそう自由とはいえない。
人間にとって重要なのは、
ただ単に自由を得るという事よりも、
感性と美意識を持つという事なのかもしれない。
歴史上、人間が引き起こした災いのほとんどは、
「いいこと」の仮面をかぶっていました。
善意を否定するつもりはまったくないのですが、
「いいこと」をやっているというせいで、
じぶんがいつも以上に強気になっていたりしたら、
「これは、あぶないぞ」と思ったほうがいいですよね。
声をかけるときは、「ダメもと」だと思いながら。
お礼を言われたら、「しまった」と思うくらいに。
文句を言われたら、「やっぱり」と思いましょう。
‥‥「わるいこと」だと思えば、こうなります。
これくらいで、ほんとにちょうどいいはずです。
どっちでもない人が、間に入って、
「あの人たちが傷つくぞ」だとか、
「あの立場の人が聞いたらどれほど悲しむか」とか、
言い募ってるケースが、とても多いような気がします。
ぼくらの「全員に気に入られようとする」病いは、
そのへんにも、原因があるのかもしれません。
ただの「そうしたいから、そうしました」を、
すっきりと言えれば、いちばんいいと思うんですが。